投稿者: Max

  • ナショナル麻布スーパーマーケット閉店

    ナショナル麻布スーパーマーケット閉店

    輸入ものの食品や日用品、本、文房具、化粧品などを売っている広尾のナショナル麻布スーパーマーケットが建物の老朽化のため本日をもって閉店しました。

    広尾地区は、会社の研修センターがあった関係で、けっこうよく訪れる場所でした。若手社員のころ、TOEICのテストやら英文ライティング研修やらビジネススキル系の研修やらでちょくちょく研修センターに行っては、帰りにはここのスーパーに立ち寄って外国人の買い物客を見に行ったものでした。だいたいがアメリカ人で、仕事で成功しいっぱい稼いでこういうスーパーで買い物できる身分になっているのを見るにつけ、これから仕事頑張ろう、英語頑張ろう、頑張ってこういう人たちみたいに成功者になりたい、と思ったものでした。

    そうこうしてるうちに、何年かたつと研修センターが他の場所に移転してしまい、またここのスーパーで売ってる輸入品も、今ではネットで現地価格で買えるようになりました。何よりも、アメリカの今の状況を見るにつけ、アメリカが必ずしも成功者の目標でなくなったということがあります。

    このスーパーは私にとって非日常の空間を与えてくれた夢の場所だったんですが、時代の移り変わりとともに、成功のシンボルとしての役割は終わったのかもしれません。このスーパーがなくなった今、もう広尾に行くこと自体、あまりないでしょう。

  • 遊びとは

    大学に通っていたころ、最初の2年間はいわゆる「一般教養」の授業をとらなきゃいけなくて、英語や第二外国語や化学、数学から、東洋史学、国文学、国語学までバラエティーに富んだ科目がありました。ほとんどは専門(工学)とは関係ない授業ばっかりで、こんなの取って何の意味があるんだろう、そんなこと教えるぐらいならもっと専門の実用的な科目を教えてくれればいいのに、まだ専門学校のほうが実学を教えてくれるだけましなんじゃないか、と思ったものでした。

    でも、社会に出てしばらくして、「人間、最後には教養がモノを言うんだな」って気づいたわけです。実用的なこととか、仕事に関係のあることを身に付けるのは当たり前のこと。それ以上に教養が人間の価値を決めるんですね。

    大学の英語の時間に、教材にヨーロッパの宮廷恋愛の話を使っていたのがありました。

    ゴットフリート・フォン・シュトラスブルクの原作で、のちにワーグナーという人がオペラにした話なんだけど、トリスタンっていう騎士と、国王に嫁いだイゾルデという妃がお互いに恋する。当然、妃のほうは人妻なのでこの恋は”不倫”になるわけで、人目を忍びながら逢瀬を重ねるんですが、最後にはお互いが破滅するという形で終わる、というストーリーです。

    「そんなのオレの専門に関係ないじゃん」って授業受けてたときはそう思ってたんですが、この話は特に欧米では常識みたいなもので、知らないと恥、というより、常識を疑われたりするんですね。

    一見、無駄だと思えるようなことが、人間の奥行きを広げてくれるってことは、けっこうあるもんだな、と思うのです。これを、機械でいう”遊び”、英語に訳すと”play”、可動部分の中のすき間部分のことをいうんですが、人間にもこの”遊び”の中から教養が生まれたりするんですね。ハードワークだけが人生じゃないし、無駄をなくすことが善、というわけでもないんです。

    たとえば、休日。私たちは、せっかくの休みだからついつい”有意義に過ごそう”として、わざわざ行楽地に疲れに行ったりしてしまうことがよくありますが、休日って英語で言うとvacation、つまりvacant(空)なものであって、vacationというのは「何もしない日」っていう意味なんですね。休日というのは”何もしないでぼーっとする”のが正しい過ごし方であって、”時間を無駄に使う”ということこそ最高の贅沢なんだと思うんです。

    日本人って、そこのところをあまりにもなおざりにしすぎたんじゃないかな〜と思うんです。”無駄を省く”ことに躍起になってしまって、”無駄”な贅沢を楽しむことに罪悪を感じる人が多いというか。でもその”無駄”こそが”遊び”であって、重要な部分だと思うんです。

    キャリア形成でも、”遊び”が将来のために役立つことがあったりします。本業に打ち込むだけじゃなく、違う分野について勉強する、異業種の人と会う、あるいは部屋の中でぼーっと考えるだけでも、仕事と直接関係なくても、将来のヒントになるかもしれません。

    長い目で見れば、人生で無益なところなんて何もなくて、ただボケーッとしてるだけでも、生きてる限り、何かの役に立つこともあるんだと思います。

  • 英語について

    昨今のグローバル社会、世界のデファクトスタンダード言語である英語をやらなきゃというのはわかっていても、日本で生まれて日本で日本人の親のもとで育った日本人にとって、中学・高校果ては大学まで最大8年勉強しても、マスターするのは至難の業です。

    なぜ日本人は英語が弱いのか、数えきれないほどの専門家が意見を述べています。やれ英語の構造が日本語と全然違うからだとか、英語教育が英文和訳に偏り過ぎていて会話を教えないだとか、そもそも英語は日常生活に必要なくて、入試になんとか合格してしまえば忘れちゃって、日本にいる限り英語なしでも生きていけるからとか。むしろ英語をひけらかすほうが(特に英語を学ぶ機会の少なかった年配者に対しては)無礼で、キザで、ムカツクなどと受け取られちゃったりします。

    英語ができる人に対して鼻持ちならない感情を抱く人がいます。「絵がうまい人」とか「プロのミュージシャン」とか「空手の達人」とか、「何かが得意」という点では同じはずなのに、彼らに対しては嫌悪感を抱かずに、英語ができる人に対してだけ不快感を抱くのも変な話だと思うんですが、戦後ずっと日本はアメリカのコントロールを受け、ビジネス面、経済面、軍事面、文化面すべてにおいてアメリカの影響を受けており、アメリカからいろんな事物が入ってくると日本人はそれに魅了され、特にここ15年ほどはアメリカの事例がすべて「グローバル・スタンダード」で、日本人も身につけるべきと喧伝されているのもあって、アメリカのものをなんとかして手に入れたいと頑張ってきました。とはいっても、頑張っても身につけられないものもいくつかあり、その一つが「英語」で、いくら頑張っても手に入れられないものへの愛情は、しだいに憎しみへと変わっていき、それが、それを簡単に身につけられた者に向けられるんじゃないか、と。そういう日本人の国民性があるので、予期しないところで人から恨みを買うのを避けるために、ほとんどの日本人は英語を話せないか、話せないふりをするようになったんじゃないでしょうか。人前で英語を使うのがキザと取られるのでは、英語を使うモチベーションは下がっていくでしょう。

    私の個人的な考えとしては、英語をマスターするにあたってとるべき態度は「アメリカに過度に憧れるのをやめる」ことじゃないかと思っています。英語はアメリカ人だけの言葉ではなく、世界中の人が、ネイティブであってもそうでなくても、学んでいる「リングア・フランカ」だからです。海外に行くと、日本で主に教えられているアメリカ英語は実は世界的にはそんなに優位ではなく、特にヨーロッパや中東や東南アジアなど、むしろ会話や公共の表示などはイギリス英語のほうが使われていることがわかります。イギリス、インド、香港、シンガポール、マレーシア、オーストラリア……そこの人たちはそれぞれ地元の英語を使ってます。アメリカの中でも、ビジネスマンからホテルのフロント係員、タクシーの運転手、ニューススタンドの店員、いろんな人がいていろんなアクセントで話してるのがわかります。そこには正しいとか間違っているとかはなく、カッコいいとかダサいとかはないんです。みな英語なのです。

    私達は英語の主人であるべきで、英語の奴隷であるべきではありません。英語を学ぶのは、アメリカの文化としてではなく、自分の拠って立つ国を代表して、自分の考えを世界のどの母語の人にも伝えられるようにするためのインタフェースとして学ぶべきと思います。そういう日本人が増えれば、日本人がもっと世界で影響力を発揮することができ、それが日本の国益にもつながるんじゃないでしょうか。

  • ケルソウ・ホームステイ2008

    今年は英語部の展示はないようなので、またケルソウ・ハートランド・ホームステイプログラムの報告展示を見てきました。

    Kelso Heartland Homestay Program
    (さらに…)
  • 同期が亡くなりました

    大学の研究室が一緒だった同じ学年の子が亡くなったという知らせを受けました。

    もともと学生の頃から1型糖尿病の持病があって、この前の日曜日にその持病の発作を起こし、そのまま亡くなったんだそうです。

    有名人の訃報はちょくちょくここのブログにも書いてましたが、知っている人の、それも同じ年の人が亡くなるというのは、初めてのことです。

    今夜がお通夜で明日が告別式とのことですが、場所が和歌山なので、東京から駆けつけるわけにもいかず、とりあえず研究室の同期一同で弔電を打ってもらうことにしましたが、それにしても、身近にいて思い出も共有したことのある人を失うというのは、たとえ最近はあまり交流がなかったにしても、悲しいものです。
    これからだんだん年が過ぎていくと、こうして仲間を一人失い、また一人失い、という経験が増えていくんでしょうね。

    ともあれ、ご冥福をお祈りします。